伊勢原で非業の終焉(しゅうえん)を迎えた室町時代の武将、太田道灌(どうかん)(太田左衛門大夫資長(すけなが))は、文武両道の鑑(かがみ)と称され、地元伊勢原市民はもとより、関東一円(いちえん)広くその武徳、人徳を慕われ、その顕彰(けんしょう)の像は伊勢原市役所をはじめ、東京日暮里(にっぽり)駅前、埼玉川越(かわごえ)市役所にもあり、東京国祭フォーラムのガラス棟には嘗(かつ)て都庁舎前にあった物が移築されている。
関東(かんとう)管領(かんれい)上杉家の分家(ぶんけ)扇谷(おうぎや)上杉家(うえすぎけ)の当主(とうしゅ)であった資長(道灌(どうかん)は出家後(しゅっけご)の名)は、当時、対立する鎌倉公方(くぼう)の足利利持(あしかがとしもち)の残党と合流した長尾景(かげ)春(はる)を(山内上杉家を謀反(むほん)によって倒そうとした重臣(じゅうしん))擁護する古河(ふるかわ)公方(くぼう)(東軍)と30年に渡り関東一円で合戦(かっせん)を繰り返していた。
その布陣(ふじん)戦略(せんりゃく)の中から江戸城も築かれたのであって、道灌(どうかん)は父の道(みち)真(ざね)と一緒にその他にも、河越(かわごえ)城(埼玉県川越市)、岩槻(いわき)城(埼玉県さいたま市)などを築いた。
秩父江戸(えど)氏(し)の領地(りょうち)の武蔵(むさしの)国(くに)豊島郡(とよじまぐん)に江戸城を築くと、その守護(しゅご)として今も残る山王(さんおう)日枝(ひえ)神社(じんじゃ)や築土(つきじ)神社 平河(ひらかわ)天満宮(てんまんぐう)なども造営(ぞうえい)した。
幼少(ようしょう)の頃から叡智(えいち)に優れ、鎌倉の建長寺(けんちょうじ)で鎌倉五山(ござん)の学問を、足利(あしかが)学校(がっこう)(栃木県足利市)で英才の教育を受けた。
武術に卓越(たくえつ)たるは、世に知られる足軽(あしがる)軍法(ぐんぽう)で、それまでの騎馬(きば)武者(むしゃ)による一騎(いっき)討(う)ちを排(はい)して、当時登場しはじめていた歩兵の足軽を活用した集団戦法取り入れたことであろう。
道灌(どうかん)は江戸城の中に弓道場を設け、土卒(どそつ)(歩兵)等に日々稽古させ、怠け(なまけ)る者がいたなら罰金(ばっきん)を取り、それを上席の兵士のお茶代に当てていたと言う。
文明18年7月26日(1486年8月25日)道灌(どうかん)は暗(あん)殺(さつ)された。
享年(きょうねん)55歳。
「太田資武状(すけたけじょう)」なる書物によると、主(ぬしの)君の関東管領上杉(うえすぎ)定正(さだまさ)の糟屋(かすや)の館(やかた)(伊勢原市上(かみ)粕屋(かすや))に招かれた道灌(どうかん)は、風呂から出たところを定正の家臣の曽我(そが)兵庫(ひょうご)に襲(おそ)われ斬(き)られたとある。
山内上杉家本家の定正が分家の扇谷上杉家の道灌(どうかん)が、自分より才覚、技量、勢力があり、本家を倒すに違いないと思い込み、妬(ねた)み、暗殺したという。
事後道灌(どうかん)の亡骸(なきがら)は二つに分けられ、墓所として首(くび)塚(づか)が下糟屋(しもかすや)の法(ほう)雨山(うざん)大慈寺(だいじじ)に、胴(どう)塚(づか)が上糟屋(かみかすや)の幡(ばん)龍山(りゅうざん)公所寺洞昌院(とうしょういん)にある。
日々史跡(しせき)探訪(たんぼう)などの会が訪れていて、毎年秋には伊勢原市を挙げて観光道灌(どうかん)まつりが大きく開催されている。
当連盟でも小学生等の剣道稽古を駅前にて披露し、郷土の文武両道の鑑と称される道灌(どうかん)公を偲(しの)び、武道武術の継承発展を誓(ちか)っている。
さて、この暗殺秘話にはその後話がある。
当然道灌(どうかん)の家臣等も定正の謀略(ぼうりゃく)悪行(あくぎょう)に黙(だま)っていた訳(わけ)ではない。
同行の七人の家臣等も刀を抜いて応戦した。
多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)果敢(かかん)なく斬(き)られ亡くなった。
道灌(どうかん)公はもはやこれまでと覚(さと)り、洞昌院(とうしょういん)に逃げ込み寺僧が匿(かくま)う。
定正の追手(おって)を引き留めているうちに、腹かき切って自害(じがい)に及んだと言う。
切り殺されたのではなく、自ら武士の最後を全(まっと)うした事となっている。
七人の家臣の墓は、洞昌院の左手、山王原日枝神社(さんおうばらひえじんじゃ)に程近い辻(つじ)に在り、七人塚(づか)と刻(こく)字(じ)された石碑(せきひ)が建っている。
代々その家臣の子孫(しそん)後衛(こうえい)として墓守(はかもり)をしている山口家(やまぐちけ)がある。
そこが私の父の実家である。
古くは私の祖父の山口幸之助(こうのすけ)は大工(だいく)ではありながら、〆引(しめしき)に鎮(ちん)座(ざ)する道灌(どうかん)神社の社伺(しゃし)まがいのこともしていたと伝う。
道灌(どうかん)公と「山吹(やまぶき)の里(さと)」伝説
「七重八重(ななえやえ) 花は咲けども やまぶきの
実(み)の一(ひと)つだに 無(な)きぞかなしき」
この和歌は、道灌(どうかん)公の文武の道を語る時に必ず登場する和歌である。
武士でありながらも歌道に精通した道灌(どうかん)公が文武の鑑と称される由縁(ゆかり)の古事(こじ)ともなっている。
意味はー 山吹という草木は、七重にも八重にも花を咲かせますが、咲いた後に実(み)を結びません。
一つも実が無いことが悲しいことです。
と、一見(いっけん)山吹の花の説明に終始(しゅうし)している歌となつている。
ところが、この歌を有名にした故事(こじ)があることが、道灌(どうかん)公の
人徳(じんとく)高揚(こうよう)の背景(はいけい)になっている。
所謂(いわゆる)「山吹の里」伝説である。
内容は次ぎのようだ
――道灌(どうかん)公が父の太田資清(すけきよ)を訪ねて越生(おごせ)の地(ち)に来たとき、突然のにわか雨に遭(あ)った。
近くの百姓(ひゃくしょう)の家で雨をしのぐ蓑(みの)を借りようと立ち寄った。
その時農家から年若い娘が現れて、一輪(1りん)の山吹の花を差し出した。
道灌(どうかん)公は借りたいのは蓑(みの)であり、山吹の花などではないと怒(おこ)って立ち去った。
後にこの事を家臣に話したところ、その和歌は「後拾遺和歌集(ごじゅういわかしゅう)」
巻19の兼明親王(けんめいしんのう)の歌であり、(延喜(えんぎ)14年~永(えい)延(えん)1年)914年
~987年 醍醐天皇(だいごてんのう)の第16番目の皇子(おうじ) 二品(にほん)中務(なかつかさ)卿(きょう)
意味は 山吹という草木は 七重にも八重にも花を咲かせますが 咲いた後に実(み)を結びません その様にこの貧(まず)しい農家には、雨を凌(しの)ぐ蓑(実の)がなく、お貸(か)しできないのが悲しいのです。
伊勢原の上糟屋(かみかすや)近くに、高部屋小学校がある。
この話を基にした日本画の掛(かけ)塾(じゅく)が高部屋(たかべや)小学校に残っていて、市の重要文化財にもなっている。
近くに山吹(やまぶき)温泉(おんせん)と名付く宿屋があった。
それ故、この話の里はこの近くだとの言い伝えもあるようだが誤りである。
東京の早稲田大学に近い神田川(かんだがわ)の桜並木の中に「面影(おもかげ)橋(ばし)」が架(か)かっていて、そこに「山吹の里」の石碑がある。
そこが物語りの場所と考えられている。
道灌(どうかん)は貧しい農家の娘でも和歌の道に通じていて、それを無知(むち)に悟(さと)れなかった自分を恥(は)じ、以後は歌道(かどう)の研鑽(けんさん)にも励(はげ)んだとの結びである。
故(ゆえ)に文武両道の鑑(かがみ)となり、伊勢原市はその遺徳(いとく)を尊び、武将の天道(てんどう)地理(ちり)を稱(たた)へ、道灌(どうかん)公を顕彰(けんしょう)する祭りとした。
その由縁(ゆかり)の地、伊勢原市剣道連盟はどうあるべきか。
青少年をはじめ、地域社会の郷土伊勢原に住まい、働き、学ぶ人々すべてに、日本古来の武道、剣道を通して何を伝へ、何を導き何を修(おさ)めるかは、毎日毎回毎年の命題(めいだい)として踏み進んでいるところであります。
精神の修練(しゅうれん)、学(がく)の研鑽(けんさん)、健全なる心身の維持(いじ)など一生の課題命題を完遂(かんすい)するには、何も剣道 武道の道を進まなくては出来ない事ではありません。
サッカー、野球、体操、スキーなど全てのスポーツの根底(こんてい)には、その上達(じょうたつ)に伴(ともな)う修練(しゅうれん)試練(しれん)があり、子弟(してい)の愛(あい)、尊敬、侮蔑(ぶべつ)があり、礼節(れいせつ)や規則の遵守(じゅんしゅ)、同好の者同士の競(きそ)ひといたわりなど、活動すればするほどの重みと責任がついてまわります。
しかし、極(きわ)めなければただの人、体得(たいとく)、会得(えとく)しなければ、ただの経験者であった過去の人、未熟者(みじゅくもの)となり、折角(せっかく)の自己(じこ)練磨(れんま)も自分に何も還元(かんげん)せずに終わってしまいます。
剣道、武道は遥(はる)か遠い遠い日本の国が作られた創始(そうし)より、神と共(とも)に剣があり、剣と共に国があり、剣と共に人の生死(せいし)の営(いとな)みがありました。
剣璽(けんじ)ご動座(どうざ)とは天皇が何時(いつ) 何処(どこ)にお出かけになる時にも、天皇の象徴(しるし)の剣と国王の印はご一緒に伴う(ともなう)ことであります。
君主(くんしゅ)は剣とその印とともに四時(しじ)世界中を動いている制度を日本は持っているのです。
日本は戦いを好む民族ではありません。
自然との調和、人と人との和合(わごう) 謙譲(けんじょう)、祖先(おや)への敬(うやま)ひと誓い(ちか)、人は青人草(あおひとくさ)と言われる様に、自然界の中の草に過ぎない。
大きな山や岩や木でもない。
毎年(まいとし)毎年(まいとし)芽(め)を出し、自然環境の中で育ち伸び花を咲かせ実(み)を結(むす)ぶ、そして枯(か)れ、また春には芽を息吹き出す(いきふきだす)。
このサイクルの繰(く)り返しが生成(せいせい)発展(はってん)であると信じられている。
暦(こよみ)とは今ではお日様の力で木々(きぎ)が育つ年輪(ねんりん)の様に解釈(かいしゃく)されているがこれは誤り(あやまり)である。
つい此間(こないだ)までは 暦の林(はやし)の部分は禾(のぎ)辺(へん)を重ねたもので、一年の穀物(こくもつ)の種まきから芽生(めば)え、実り、収穫(しゅうかく)を意味していた。
人は大自然の中の一本の草、しかしその草は秋には実り実を結び子孫(しそん)を増やし生命の営みを続ける力を残す。
そして自分は枯(か)れ、大地の養分(ようぶん)肥料(ひりょう)となり、子孫を育(はぐく)む。
天地(てんち)の恵みはその生存の営みを助ける大切な媒体(ばいたい)である。
しかし一度そのバランスが崩れ(くずれ)れば、豪雨(ごうう)、酷暑(こくしょ)、氷結(ひょうけつ)、降雪(こうせつ)、旱(ひでり)乾燥(かんそう)など、その猛威(もうい)に枯れ果(は)てる。
一番恐ろしい事は、鍬(くわ)、鎌(かま)、剣など刃物(はもの)で刈(か)り切られる事であり、一年のサイクルを壊(こわ)される事であります。
剣は自然生命を左右(さゆう)できる威力(いりょく)の象徴(しるし)であり、その力を手に入れることが、憧(あこが)れであり目標であるのが人間社会であります。
神話(しんわ)に大國(おおくに)主命(ぬしのみこと)の国(こく)譲(ゆず)りの段(だん)があります。
昔(むかし)日本が大八洲(おおやしま)國瑞穂國(くにみずほのくに)と言われていた時代、天孫(てんそん)系(けい)の天照坐皇大神(あまてらしますすめおおかみ)を中心とした神々は、大八洲國(おおやしまのくに)を統治(とうち)する為に瑞穂國(みずほのくに)に天下(あまくだ)られました。
その時には既(すで)に日本には元々(もともと)瑞穂國に居られた神々が統治(とうち)されていて、その中心が国王であるところの大國(おおくに)主(ぬしの)大神であられました。
天孫系の天津(あまつ)神等は出雲(いずも)の国で國津神(くにつかみ)の長である大國(おおくに)主(ぬしの)大神(おおかみ)に、日本国の統治(とうち)を天津(あまつ)神(かみ)等に譲(ゆず)るよう申し出ました。
國津神は悩(なや)み、戦(たたか)いか、譲歩(じょうほ)かとの神議(かむはか)りの末、日本国の神等は主(しゅ)権(けん)を譲り天津(あまつ)神等に統治(とうち)してもらうようにしました。
争いや戦争を選んだらどんな悲惨(ひさん)な事に為(な)ってしまうかを解(わか)っていたのです。
正(まさ)に無血(むけつ)開城(かいじょう)です。
その布石(ふせき)として、天孫系の武(ぶ)の神の武甕槌大神(竹みかづちのおおかみ)と經津主神(ふつぬしのかみ)は、その威力(いりょく)を比(くら)べるために、海の波の上に剣を立て、その刃先(はさき)に座(すわ)りました。
武甕槌大神(竹みかづちのおおかみ)の勝利にて事(こと)了(お)へました。
共に鹿島(かしま)神宮(じんぐう)、香取(かとり)神宮(じんぐう)、春日(かすが)大社(たいしゃ)に奉(ほう)斎(さい)されている神々であり、旧の官幣(かんぺい)大社(たいしゃ)であります。
剣は権力ではありません。
次なる発展のための象徴(しるし)であり、その力を扱(あつか)う知力(ちりょく)、見識(けんしき)が大事であるとの教えであります。
現在は終末的(しゅうまつてき)に人が人を殺(あや)める事件が毎日の様に報道(ほうどう)されています。
個人の利己的(りこてき)な価値を取り込む事に武器として刃物(はもの)が使用されている。
神聖(しんせい)なる剣、文化伝統としての象徴(しるし)の剣、民族と国家の誇(ほこ)りとしての剣、そして、その剣を扱う人々の歴史と教え、つまりは、人間関係を構築(こうちく)している心の組み合わせの融合(ゆうごう)、尊敬(そんけい)、謙譲(けんじょう) 対等(たいとう)などの礼法(れいほう)が集約(しゅうやく)された武道文化たる日本文化を穢(けが)す事を、平気(へいき)で行なってしまう日本人が急増(きゅうぞう)している事に危機を感じざるを得ません。
三年後に中学の教育課程で、再び武道の授業が取り入れられる事になった。
私が中学生の頃に、全校生徒が、寒稽古(かんげいこ)、暑中稽古(しょちゅうけいこ)を行なっていた記憶(きおく)も生々(なまなま)しい。
時代は繰り返す。
果(は)たして日本人の心の組み合わせを教えるに間に合うであろうか。
教師方も不安は夥(おびただ)しいことであろう。
今の先生は武道の経験がない。
殆(ほとん)ど野球、サッカー、テニス、バスケ、バレーボールなどの球技で育ってきた人たちだ。
ゆとり教育は、先生方の未修練(みしゅうれん)の分野から民間人を登用(とうよう)して、土曜日に社会活動、奉仕活動、課外活動を取り入れて、地域社会と一体の人間形成の勉強をさせるはずだった。
見事に何もせず失敗した行政は、あわてて元に戻す試(こころ)みを始めようとしている。
見識(けんしき)は甘すぎる。
宮本(みやもと)武蔵(むさし)はその著書(ちょしょ)「五輪(ごりん)の書(しょ)」の中で述(の)べている。
「我(われ)以外(いがい)皆師(みなし)なり」と。
比類(ひるい)なき剣豪(けんごう)の意中(いちゅう)はこのように常に謙虚(けんきょ)であり、常に研鑽(けんさん)の志(こころざし)に満ちていた。
先生も一人の人間である。
聖職(せいしょく)と言われた時代に比(ひ)せざる労働者と自(みずか)ら宣言(せんげん)してしまった。
聖職(せいしょく)にあらねば謙虚なる位(くらい)に就(つ)き、足(た)らざる所を民間の専門家に委(ゆだ)ねる道を選ばれたら宜(よろ)しかろう。
受け入れの間口(まぐち)を大きく大きく開けられれば宜しかろうと思う。
伊勢原市剣道連盟は常に30余名の役員指導者得て日々教導(きょうどう)している。
どうぞご活用下さい。
剣道のみならずあらゆる物事を習得(しゅうとく)しようとしている子供たちにとっては、先生、親、家族以外であっても、皆師(みなし)である存在なのです。
この4月で私、近藤会長は5期、10年目の会長在位(ざいい)となります。
伊勢原市が市政(しせい)執行(しっこう)30周年、伊勢原市剣道連盟が創立20周年の節目(ふしめ)の時、旧態(きゅうたい)を妥(ただ)し、公民(こうみん)の確執(かくしつ)を和(わ)す為に
46歳で会長に選出されました。
当時としては、神奈川県のみならず見渡(みわた)す全国でも一番年少の会長であったとおもわれます。
正(まさ)に斯道(しどう)にては浅学(せんがく)非才(ひさい)の会長でありました。
しかし、市剣連の仲間やご父兄のご理解と、神奈川県剣道連盟の高峻(こうしゅん)な先生方のご鞭撻(べんたつ)により、民営化に倣(なら)って改革(かいかく)をすすめられました。
早10年、悪(あ)しきを退(しりぞ)け、良(よ)き奨(すす)めることのみ終始(しゅうし)しながら運営して参りましたが、永き年月を繰(く)り経(へ)て行く内には、知らず知らずに塵(ちり)も積(つ)もれば汚(よご)れも付くものでしょう。
誰か更なる志(こころざ)しい指導者を戴ければとも思っていますが、今回の役員人事では、私に足(た)らざる所を多くの新進(しんしん)の指導者が補(おぎな)って戴けるとの事で、継続相成(あいな)りました。
であれば、目前(もくぜん)の改革として、優秀な剣士の市外、県外の流出を如何(いか)に防ぎ故郷(ふるさと)伊勢原の為に、将来の指導者、役員として確保すべきか。
小中学校時代に剣道活動をされていた方々が、個々の事由(じゆう)により剣道を離れていかれた。
その方々はいつでもどこかに剣道で学ばれた精神を持って居られる筈(はず)、いつかはまた剣道を再開(さいかい)したいとも思われている筈です。
自分の子供が小学校に入ったからこの際(さい)一緒(いっしょ)にまた剣道を再開しましたと言う主婦(しゅふ)もどんどん増えている事も、そんな事象の証(あかし)です。
少子(しょうし)高齢化(こうれいか)が依然(いぜん)として進行する中で、新規に剣道を学びたいと志す方は減(へ)りもすれ、増えることは期待(きたい)できません。
剣道経験者のリターン、再開を温(あたた)かく迎えられるような、皆ファミリーなる連盟体質を造り、ご理解を勧(すす)めて行きたいとおもいます。
ご支援(しえん)、ご協力、ご鞭撻(べんたつ)のほどお願い申し上げます。
神奈川県剣道連盟伊勢原支部長 近藤 喜一